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一条の糸を手繰って

 そもそもは、法律の項目を数えるのになぜ「条」が用いられるのか、という疑問から始まった。それで「条」という漢字の成り立ちを調べることにした。


 まず、現在広く使われている「条」は俗字で、もとは「條」という字体であった。そして「條」という字は「攸」と「木」を組み合わせて作られている。では「攸」とは何か。これは人の背中に筋を描くように水を流して洗い清めることを表している。その筋状に流れ伝う水の様子から、「攸」は「細長い」という意味を持つようになった。そうしてこれに「木」の加わった「條」は、樹木において細長く伸びている箇所、すなわち枝を意味する。(注1)


 さて、文章は普通、内容が増えるとそのぶん細長く伸びていく。そこでひとまとまりの文章も「条」と呼ぶことができる。特に法律の文章は箇条書きで示されることから、「条」という表現が馴染むのだろう。



 ところで、法律の文章ばかりでなく、「条」は細長いものを数える単位としても用い得る。が、今は専ら「本」がその役を一手に引き受けているようにも思われる。一体、「条」と「本」には何か使い分けの基準があるのだろうか。今度はそのようなことが気になった。


 例によって辞書を引いてみる。(出典はいずれも『日本国語大辞典 第二版』)


 条……糸・帯・縄・幕・川・道など、細長いものを数えるのに用いる

 本……植物、またはこれに似た細長い棒状のものを数えるのに用いる


 これらの解説を読み比べて目に付くのは、「本」の説明にある「棒状の」という語句である。わざわざ言い添えているということは、棒状であるか否かが両者の使い分けを左右しているのではないか。


 具体的に考えてみよう。たとえば、鉛筆。これは棒状であり、「本」で数えるのが一般的であろう。そして、


「机の上に鉛筆が一本置いてある」


という文章も、やはり違和感はない。これが、


「机の上に鉛筆が一条置いてある」


になるとどうか。言わんとすることは伝わるかもしれないが、どうも不自然な感じがある。少なくとも私は、このような表現を実際に見聞きしたことはない。どうやら、「本」では数えられても、「条」では数えられないものがあるらしい。そのように考えてみると、煙突や電柱などはまさにその類のように思われる。


 とここで、今度は「条」について、糸を例に考えてみる。糸は、たとえば糸電話で用いるときのようにぴんと張っているものももちろん一条だが、ミシン糸のようにぐるぐると軸に巻きつけてあっても、途中で切れていなければやはり一条ということになる。これは、鉛筆を真ん中からへし折ったらもはや「一本の鉛筆」とは呼べないことと対照をなす。


 続けて川や道についても考えてみる。この二者も曲がりくねっていようが一続きなら一条となる。加えてこれらは、それ自体には触れることができないもの、とみなすこともできる。川の流れに手を差し入れても、直に触れているのは水である。同様に、道のどこかに立っていたとしても、足を置いているのは土や砂利である。細く差し込む光や飛行機雲も「条」で数えられるが、この二つなどは川や道以上に捉えどころがない。


 このように見ていくと、「本」はそれ自体としてはっきりとした形を持っていて、しかもその形状がまっすぐで固定的なもの、一方で「条」は形状によらず細長い一連の流れを示すもの、をそれぞれ数えるようである。「本」が棒状のものを数えるならば、「条」は〈線状〉のものを数える、と言えるかもしれない。



 そういえばと、芥川龍之介の小説に『蜘蛛の糸』という短編があるのを思い出した。そうして久しぶりに読み直してみると、このような一節が見つかった。

 

ところがある時の事でございます。何気なにげなく犍陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。(青空文庫より)

 

 「すじ」は「筋」と書くのが一般的だが、「条」とも書く。


 犍陀多は現世で蜘蛛の命を助けたことから、御釈迦様の計らいにより救いの糸を掴む。彼はそれを登って地獄を抜け出そうと張り切った。ところが、彼が自分一人だけ助かろうという態度を示した途端、糸はぷつりと切れてしまう。「条」と「本」の違いを考えた上で読むと、この危うげで頼りない糸は「すじ」と数えるのがふさわしく感じられる。


 「神は細部に宿る」という言葉を思い出す。優れた踊り手が指先まで神経を尖らせるように、優れた書き手は一語の差異にも意識が働くのだろう。

 

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(注1)みそぎ(攸)に用いた枝とする説もある(白川静博士の説)